愚直であれ(その2)

菅首相がいよいよ退き本日その後継者を選出する運びとなったが、菅首相は、部下に任せるという風なところが全くなく「オレがオレが」ばっかりだったので、ついには殆どの大臣が離れていってしまった。菅さんはいうまでもなく山口の出身、つまり長州である。司馬遼太郎が、「坂の上の雲」第3巻で、薩長の違いを次のように述べている。

「陸の長閥、海の薩閥」という。これはうごかしがたい事実であった。「薩の海軍」のばあいは薩閥の山本権兵衛自身が、日清戦争の前に薩摩出身の先輩たちのうち、無能者の首をことごとく切って組織をあらたにし、機能性をするどくし、清国に勝つことをえたが、しかし「長の陸軍」のぼあいは、そういう新生改革の時期がなく、大御所である山県有朋が、依然として藩閥人事をにぎり、長州出身者でさえあれば無能者でも栄達できるという奇妙な世界であった。
(中略)

日露戦争を遂行しつつある陸軍の最高幹部には、圧倒的に長州人がおおかった。陸相の寺内、参謀総長の山県、同次長の長岡、現地での総参謀長児玉といったふうに、軍政と作戦両での要職のほんどを長州閥が占めていた。
 ところがおもしろいことに、野戦で大軍を指揮するタイプが、長州人にすくなかった。長州人は、野戦攻城の猛将といった人材にとぼしい。というのは、この当時の非藩閥軍人のあいだでの感想であった。その点は薩摩人がもっとも適していた。野戦の総司令官には薩の大山巌がすわった。
(中略)

 日本軍の負けいくさになることは、まざれもなかった。思いあわせると、大山巌は幕僚をひきいて日本を発つとき、「いくさのさしずはすべて児玉サンにまかせます。ただ負けいくさになったときは私が出て指揮をとるでしょう」 といった有名なことばが、おそらく実現されたかもしれない。勝ちいくさはすべて児玉のしごとにしてしまうというのが、大山の将として大きさであった。ただ戦闘が惨烈になり、全戦線が敗色で崩れたつとき、味方を大崩壊からなんとか食いとめる唯一の道は、総大将の器量にあることは古今東西かわらない。それには全軍からいわば軍神のような信望を得ている人物であることが必要であった。それが山のように動かず、将士に前途の希望をもたせつつ鼓舞し、あくまで沈着豪胆に適切な指揮機能をはたしてゆく人物がのぞましい。大山は、それには自分のほうが児玉より適材であることを知っていた。
大山と児玉はそういうコンビであり、大山という人物は、「勝っているときは、私は必要がない」と、心からそうおもっている人なのである。犬山は西郷隆盛の従弟であり、近所でうまれて少年のころからその影響をうけ、青年期の幕末にあってはつねに西郷の身辺でその手足になってはたらいた。将とはなにかというモデルは、大山には西郷以外になかった。
 

引き続き第4巻で
   

薩摩人大山巌を頭にいただいて満州へやってきた。大山巌は、幕末か維新後十年ぐらいにかけて非常な智恵者で通った人物であったが、人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ、頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物である。海軍の東郷平八郎にもそれが共通しているところからみると、薩摩人には、総大将とはどうあるべきかという在り方が、伝統的に型としてむかしからあったのであろう。
 ついさきごろの沙河会戦で、激戦がつづいて容易に勝敗のめどがつかず、総司令部の参謀たちが騒然としているとき、大山が昼寝から起きてきて部屋をのぞき、「児玉サン、今日もどこで戦(ゆっさ)がごわす」といって、一同を唖然とさせた人物である。大山のこの一言で、部屋の空気がたちまちあかるくなり、ヒステリックな状態がしずまったという。

菅さんに、少しでもこの大山巌のような資質を持ち合わせていたら、今の政界の「ヒステリックな状態がしずまった」かもしれない。