民主主義か強権主義か(その4)

プーチンの余りの暴虐無道に興奮したのか、このところ立て続けにブログを書いております。

上記テーマを、何年か前の定例ミーティングで論じたのを思い出した。

以下、2015年7月22日(水)議事録よりの抜粋

 

1.日露戦争 

みんな、日本は勝った勝ったといって、有頂天になった。 満州の露軍は蹴散らされたと新聞は大々的に報道したが、その実、部分的には確かに勝ったが、日本は、兵器も弾薬も使い果して、補給しょうにも、余力がない。兵隊も、いっぱいいっぱいだった。

日本の国民はロシアに大勝を博して、狂気乱舞したけれど、ポーツマスで開かれた講和談判の結果には、失望落胆した。日露講和条約に不満の民衆が、9月5日、日比谷公園で条約反対の国民大会をひらき、終了ののちに街頭に流れ出て、暴動化したのである。

2.講師 藤原正彦 先生  演題 「日本のこれから」

 一国を運営する、リードするということは、大変なことです。したがって、圧倒的な真のエリートが日本を率いてくれないと困るのです。真のエリート、その第一条件は、教養を腹いっぱい身に付け、それに基盤を置いた大局観、長期的視野を持っていることです。第二条件は、いざとなったら国家国民のために命を捧げる気概を持っていることです。しかし、この真のエリートが日本からいなくなってしまった。

 

藤原正彦の「国家の品格」では概ね次のように著している。

 民主主義の根幹は主権在民である。それは“国民が成熟した判断ができる”ことが前提である。しかしサラエボ事件で国民が大騒ぎした結果、外交ではおさまりがつかなくなり第一次大戦を引き起こした。第二次大戦でドイツがオーストリアを併合したときは、ヒットラーの煽動にドイツ国民が乗って、国民投票では99%が支持した。日本だって昭和12年までは民主主義だったが、国民はもちろん朝日新聞をはじめとする新聞も、ほとんどが軍国主義を支持した。最近では、イラク戦争を支持したアメリカ人は開戦時に76%だった。このように、民主国家で戦争を起こすのは国民であり、世論を操るマスコミが第一権力者になる。国民は永遠に成熟しないのだ。その暴走を防ぐのは誰か。それこそが真のエリートである。エリートとは文学・哲学・歴史・芸術・科学と平生は役に立たない教養をたっぷり身につけていて、優れた大局観と総合判断力をもち、いざという時は国家・国民のために命を捨てる気概のある人を言う。官僚はエリートではなく保身の徒である。平等もフィクションである。格差の甚だしい米国をはじめどこの国にも平等はない。

3.松本サリン事件 『日本の黒い夏─冤罪』より

 

『日本の黒い夏─冤罪』は2000年の作品。監督の熊井啓は私の学校の先輩なので、先々週TVで放映された機会にこの映画を見た。

1994年、長野県松本市北深志地区で発生した松本サリン事件の第一通報者である河野義行に対する「警察の強引な任意同行」と「報道機関の誤報による過熱取材」によって、我々国民・一般大衆は河野さんを真犯人と思い込んでしまった。みんながそうだからと言って、必ずしも正しくはないという典型的な例である。

発生から7月3日までは河野さんを犯人視するような情報が氾濫。テレビのワイドショーや週刊誌が追随します。特に『週刊新潮』(7月14日付)の「毒ガス事件発生源の怪奇 家系図」という特集は「さん」付けながら河野さんの実名で「有毒ガスの発生源は河野宅だったと警察の捜査で判明」と断定。出身から今に至るまでの個人情報を詳細に報じ19世紀半ば(本文は西暦明記)生まれの先々代(同実名顔写真付)から「家系」を説き起こし「親戚の話」などでもめごとがあったかのように書いています。

急展開したのは同年11月、山梨県上九一色村にあったオウム真理教教団施設周辺でサリンの副生成物が検出されてからです。そして1995年3月20日、東京都内で死者13人、負傷者数千人という未曾有の惨事「地下鉄サリン事件」が起きます。2日後に同年2月に起こっていた仮谷清志さん監禁容疑で警視庁が上九一色村の教団施設などを一斉捜索。約1か月後に逮捕した教団幹部の1人がサリン散布の事実を認めて麻原代表やその実行犯などを取り調べたところ、認めました。松本サリン事件は別の幹部が関与を認めました。

 

みんながいいいいということが必ずしも良くはない。第一何が正しいかはっきりしていない。太っている方がいいのか痩せている方がいいのか。コレステロールはどうなのか。炭水化物は摂ったらまずいのか。諸説紛々だ。6/25の週刊文春は「昨年は、長生きしたければ肉は食うな、が大流行だったが、本当のところは肉食は必要」とトップ記事にあった。一体どっちなのだろう。安易にTVや新聞を盲信してはならない。といって誰の話も聞かない、TVや新聞を読まないということになれば、もっともっと悲惨だ。

みんなの意見を聞く。新聞やTVをみて視界を広く持つ。賛成という本と反対という本を読む。そうして自分の考えを持つというしかないのではないか。大変難しい道だが・・・

 

昔40年ほど前、イザヤベンダサン(山本七平)の「日本人とユダヤ人」という本が出た。「ユダヤ人の古い慣習では全会一致の決議は無効としている」という。全会一致ほどいいものはないと思っていた私にとって、このフレーズに接して目からうろこが落ちる思いがしたことを今でもはっきり覚えている。つまり一つも反論のないものは怪しい。何か問題があるというのだ。

同様に、会社を運営して行くというのは、一つ一つ、何らかの方針を決定してゆかなければならない。ところが、面倒なことだが、何が正しいとは誰も判らない。これまで述べてきたように、みんながいいからといっていいとは限らないからだ。結局、色々な意見が出て、議論が噴出し、最後に責任のある人が決める、というのがいいというのが世間の知恵として落ち着いているように見える。

一人の独裁者が決める共産主義よりみんなで決める民主主義の方がいいにきまっているが、国民・民衆が決めるというのは得てして間違う。矢張り、みんなの意見をよく踏まえて、責任感を持つ人に決定してもらうというのがいいような気がする。

専制者独裁者が数々の悪政を敷いてきたのは言を俟たないが、教養、大局観を持った一人(いちにん - 最もすぐれた人。第一人者)が最後に決定するというのが一番いいような気がする。幕末、官軍は西郷隆盛に、幕府側は勝海舟に一任した。この二人が列強の植民地化から救った。みんなで決めていたら「船頭多くして船山に登る」だったろう。

 

まとめると、まずは先週の議題の「ダイバーシティ(多様性)」だ。自分との異論を大切にするような心の広さ、視界の広さを持たなければならない。簡単に言えば、またまたこの「ワイワイガヤガヤ」つまりワイガヤだ。これをなくして、会社の維持はできないし、ましてや発展はないということを肝に銘じてほしい。そして最後に司々の長が責任をもって決定する。