1)維新の敗者側にも逆境にめげず立派な活躍をした人がいた

・・・大山巌夫人捨松の人生に学ぶ・・・
放映中の大河ドラマで主人公の八重さんが新島譲と出会ってからますます面白くなってきた。明治維新で首都が東京に移り閑散を極めていた京都を復興させたのは八重の兄の山本覚馬の働きが大きかった。会津藩といえば賊軍で敗者側だから、何かにつけて「会津者が・・・」と言われた。その会津から八重ばかりではなくこんな面白い女性が生まれた。

①幕末から明治にかけて日本自体が変貌を遂げたので、それに伴い個人の運命も大きく変わった。子供の頃は全く想像しなかった境遇になったという人も大勢いる。しかしその中でも女性として、これほど大きな運命の変転を味わった人は少ないのではないか。その女性、大山捨松(すてまつ)という名前は、この人物の人生最後の名前で、子供の頃は山川咲子といった。山川浩、健次郎兄弟の妹である。1880年の生まれだから、会津鶴ヶ城攻防戦の時はまだ8歳だった。それでも城内に入って銃弾運びの仕事をした。その間、身内(山川浩の妻)を砲撃で失うという辛い経験もしている。会津城開城後、山川一家は斗南の地へ移住したが、末っ子の咲子だけは11歳になると函館の家に養女に出された。斗南は前にも述べたように寒冷地で食糧事情も悪いし、まともな教育施設もない。咲子をより良い環境で育てたいとの両親の希望だったのだろう。

②「夕刊フジ」から


③11年間の留学を終えて帰国したが、肝心の日本語が怪しくなっていた。留学仲間の永井繁子とはたまに日本語で話していたか、兄の健次郎とは会うこともなく、どうしても英語で物を考えるようになっていたのだ。会話よりも読み書きはさらに苦手だった。少女時代にアメリカに留学したため、英語の習得はすらすらと進んだが、逆に日本語の方を忘れてしまったのである。帰国子女第一号とも言うべき捨松と繁子は、とりあえず対照的な道を選んだ。 繁子のほうはさっさと海軍軍人とお見合いして結婚してしまった。捨松の方にも縁談が持ち込まれたが、彼女はにべもなく断ってしまった。私は嫁入り道具のために留学したのでは無いと思っていたのだろう。ところが繁子の結婚披露宴に出席したとき、その場にいた軍人が捨松に一目惚れした。彼女よりも18歳も年上で前妻と死別し、新しいパートナーを求めていたのである。その男の名前は大山巌(いわお)と言った。薩摩出身で西郷隆盛のいとこでもある。鶴ヶ城攻防戦で、官軍の砲兵隊長を務め城内に何千発もの弾丸を打ち込んだ男なのだ。大山は知人を通して山川家に捨松を正式な夫人として迎えたい旨申し入れた。当時、山川家の家長を務めていたのが、兄の浩である。浩の妻は、鶴ヶ城で砲撃のために殺されている。当然その兵隊の隊長であった大山に妹をやるつもりなど毛頭無かった。しかし大山は諦めなかった。今度はいとこの西郷従道(つぐみち)に頼んだ。従道は実に頭の良い男だった。浩が「うちは賊軍の家柄ですから」と断わろうとしたのを、「我等も同じだ」と応じたのだ。西南戦争の時、兄の西郷隆盛は政府に反旗を翻し結果的に賊軍となった。その一族だから「うちも同じ」と従道は言ったのである。さすがの浩もこれには返す言葉がなく、とうとう本人の意向を聞いてみようということになった。兄は妹が断るのを密かに期待していたのかもしれない。ところが妹は、「とにかくお会いしてみないことには」と言った。アメリカ流である。デ−トをしたことも無い男と結婚するなどとんでもないということだ。その意向が大山に伝えられると大山は喜んで応じ、とりあえず2人は食事をするということになった。大山は現れた捨松にいろいろと話しかけた。大山の言葉は薩摩弁である。ところが困ったことが起こった。捨松は大山の薩摩弁を全く理解できなかったのだ。このあたりは実に面白い。私も今、この薩摩弁に苦しんでいる。当時のこと、全然わからなかったというのは誇張ではないと思う。

④「夕刊フジ」から



明治期の大ベストセラー小説、徳富蘇峰の「不如帰(ほととぎす)」のヒロイン浪子はこの捨松がモデルで悪女として描いた。ちなみに、大河ドラマ「八重の桜」の主人公に、浅はかにも、鵺(ぬえ)と最初に呼んだのが蘇峰である。後にその非礼を詫びて、八重の最大の理解者になるが・・・。映画もラジオもなかった時代、例えばロシア。最も人気があったのはトルストイで、事実帰国したときは大群衆が出迎えた。当時の蘇峰は、日本国民で知らない人はいなかったろう。明治・大正・昭和の3つの時代にわたる日本のジャーナリスト、オピニオンリーダー、思想家、歴史家、評論家にして大作家。また、政治家としても活躍して、戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた最大の著名人であった。同志社の大先輩であるが、この人にして、この捨松や八重のことを見誤った。軽率に人を決めつけないことだ。また「あの人は偉いから」といって、むやみやたらに信じてはならない。

もう一つついでに大山巌について是非追記しておきたい。日露戦争で日本を率いたのは、総司令官であったこの大山巌である。この地鹿児島は、西郷さんばかりでなく、沢山の英雄を輩出している。
先週の大河ドラマ「八重のさくら」で大山巌西南戦争の政府側の指揮を執っていた。若いころの彼は、他人(ひと)より才走っていてむしろ激しい人であった。その人が、役が進むに従って見事に変貌していたのである。ここまで書いて以下を思い出した。私の下手な文章であれこれ書くよりも、この方が余程いい。余りに長くなるので翌日に続きです。