2)大山巌の偉大さ

もう一つついでに大山巌について是非追記しておきたい。日露戦争で日本を率いたのは、総司令官であったこの大山巌である。この地鹿児島は、西郷さんばかりでなく、沢山の英雄を輩出している。
先週の大河ドラマ「八重のさくら」で大山巌西南戦争の政府側の指揮を執っていた。若いころの彼は、他人(ひと)より才走っていてむしろ激しい人であった。その人が、役が進むに従って見事に変貌していたのである。ここまで書いて以下を思い出した。私の下手な文章であれこれ書くよりも、この方が余程いい。

司馬遼太郎著「坂の上の雲」にこんな件(くだり)がある。

大山巌は、幕末から維新後十年ぐらいにかけて非常な智恵者で通った人物であったが、人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ、頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物である。海軍の東郷平八郎にもそれが共通しているところからみると、薩摩人には、総大将とはどうあるべきかという在り方が、伝統的に型としてむかしからあったのであろう。ついさきごろの沙河会戦で、激戦がつづいて容易に勝敗のめどがつかず、総司令部の参謀たちが騒然としているとき、大山が昼寝から起きてきて部屋をのぞき、「児玉サン、今日もどこで戦(ゆっさ)がごわす」といって、一同を唖然とさせた人物である。大山のこの一言で、部屋の空気がたちまちあかるくなり、ヒステリックな状態がしずまったという。(第四巻P77)

大山はボンヤリどころか、「この開戦は、容易ならざるもので敗戦もありうる」と覚悟の上で総大将を引き受けた。
大山はこの日、宮中で明治帝に拝謁した。明治帝は、「山県(有朋)もいいのだが、しかしするどすぎて、こまかいことまで口出しするので諸将がよろこばぬようだ、そこへゆくとお前ならうるさくなくていい、ということでまあそういう次第でお前に決まった」と帝は当の大山に人事の事情まで話した。大山は笑いだし、すると、この大山はボンヤリしているから総司令官にちょうどよい、というわけでございますか。というと、帝も笑って、まあそんなところだろう、といった。大山はその宮中でのことを山本権兵衛にも話し、一笑してから、「要するに、ボンヤリを見こまれて出てゆくわけですから、いくさのこまかいことはすべて児玉サンにまかせます。しかし負けいくさになったばあいは、自分が陣頭にすすみ出て、じかに指揮をとります」と言い、そこで出陣にあたり、頼みがあってきた、といった。「軍配の揚げ時機(じお)をたのみ申すぞ」ということであった。軍配のシオというのは、講和の時機という意味である。かねて大山は山本権兵衛とともにそのことばかりを語り、戦争の終末点をのがさずに第三国にたのんで講和へもちこむ、という方針をもってこの戦争をはじめたのだが、自分がこのように戦争に行ってしまえばあなたにそれを一手でやってもらわねばならない、そのことよろしく頼む、ということであった。(第三巻P115)

 

この大山の態度には、後の帝国陸軍のおごり高ぶった尊大な考えは微塵もない。小心ともみえる用心深さで、綿密な計画を作り上げたて、ギリギリの勝利に導いた。