庶民の生活が一番!

先週、私は滅多にその種のTVは見ないのだが、美輪明宏をボンヤリ見ていたら、「金持ちや出世をした人を羨むことも、劣等感を感じる必要もない。みんなそれぞれ苦しみを持っている。もしかしたら、その人痔かもしれないじゃない」と言って笑わせていた。まさにその通りだ。

その数日後、こんな番組は初めて見たのだが、今度は、全員東大出であるが、年収300万以下の8人から3億円超の1人まで、5つのランクに分けて面白おかしく論じ合っていたが、みんなが一見羨むその3億超の投資家も、我々庶民ではとてもうかがい知れぬしんどさを訴えていた。
彼曰く。「本当の資産家はお金を使わないんです。事実僕もぜいたくは嫌いです。海外旅行は行かないし車は中古。危険なので飲みには絶対行かない。人間転ぶのは、色か金か名誉か、この3つしかない。ハニートラップは特に危険で、私生活でも気が抜けない。友達とは余りにも生活レベルが違いすぎるので一人もいない。犠牲にしていることがたくさんある」。「若い頃、女性に全然もてなくて、27歳まではフリーターで、サラリーマン時代の1億2000万円もの借金していた時、今の家内が結婚してくれた」と涙ながらに告白し、奥さん以外に信用のできる人が誰もいないようであった。



みんなそれぞれ、苦労や心配や苦痛があるのだ。一番いいのは庶民だと、改めておもった。実は、このような考えは何十年も前から私の中にあったようだ。というのも、20年以上も前のことになるが、森村誠一の「忠臣蔵を鮮明に覚えている。1400ページにも及ぶ大作である。その一節にこんな件(くだり)があって妙に共感したものだ。()と太線は私が挿入。




「よい季節になったの。障子をたてていても花の香りがするわ」(柳沢)保明が深く息を吸ったので、紀国屋文左衛門が、「上野や浅草は大変な人出でございます」と市井の花の消息を伝えた。芭蕉が「花の雲鐘は上野か浅草か」と吟じたのは貞享元年である。まだ隅田堤や飛鳥山の桜が出現する以前で、上野と浅草が江戸の春を独占している観があった。              大勢で花の下へ繰り出して賑やかに飲食するのがようやく庶民の娯楽として定着したころである。
障子を開くと、縁越に広大な庭園が視野に入った。「六義園と名づけた回遊式庭園で全園の布置を和歌の六義に拠ったという。この邸は元禄八年四月松平加賀守の邸を拝領したもので、面積四万八千九百二十一坪であった。さらに元禄十年と同十三年に五千九百二十坪を加えられた広大なもので、現在も巨費をかけてまだ整備中である。
ここに将軍を招き、居ながらにして自然を象った池水、山、林石の妙を鑑賞しながら回遊できるような設計である。金に飽かせて、独占した人工自然の中でも、いま桜が盛りであった。春光を乗せた微風が花びらを誘い、その数片を座敷の中まで運んできた。
その桜に視線を集めた三人はふと同じことを考えた。
天下の権勢と富を独占し、位人臣きわめ、栄耀を尽くしても、この人工自然の下の花見は数千本の桜を集めた上野浅草の庶民の花見の楽しさにはかなわない。楽しさは大勢で分け合ってこそ倍加する。楽しみを独り占めするためにここまで這い上がって来て、庶民のだれもがいとも簡単に手に入れられる楽しさから疎外される矛盾を一様におもったのである
しかし、将軍や保明や高家筆頭(吉良上野介)が庶民と肩を並べて花見を楽しめない社会の構造になっている。そのようなヒエラルキー階級差別)によって社会が成り立っているのである。
庶民が豪勢な天然の桜の下で面白おかしく浮かれているかたわらで、将軍を中心とする支配階級がイミテーションの花見で辛抱しているのである。模造の花見をするために庶民の膏血を絞った巨費が投ぜられる。そのために動員される人力も莫大である。庶民なら簡単に手に入れられる自然の恩恵を独占するために模造するのが権力というものであった。またそういうことのために、まさに権力は在った。模造の自然の中で春日は昏れかけていた。人工だけにその暮色には計算された美がある。夕映えを浮かべた池の色、それぞれの位置の林石、築山のたたずまい、風に舞う花びら、すべてが人間の技巧によって演出され、破綻のない完璧な人工美を構成する。その完璧性を独占することによって、主がおのれの権力と富を確認するような配置になっているのである。                                            
空を染めた江戸の残照は、人造ではなかった。街の方角から、この広大な面積を擁する館の内まで陽気な騒めきが漂って来る。陽転する季節の暮色が江戸の街を覆っている。
「春でございますな」。吉良上野介が膝元まで飛んで来た花びらに目を細めた。
「まことに人に生まれて春に出逢うは幾度かな。我が世の春において楽しむ春こそまことの春であろう」 保明がしみじみと言った。上野介と文左衛門はその語調に不吉な音感を感じ取った。いま保明が人生の絶頂期にあることは万人等しく認めるところである。将軍の覚え最も目出度く、将軍の独裁権はすべて側用人たる保明の手中にある。それでいて保明の言葉には、行く春を惜しむひびきがあった。
(この春をいつまでも続かせなければならぬ。自分たちの春を永続きさせるためには)
上野介と文左衛門は内心おもった。保明の権勢のカサの下にあるからこそ、彼らの春があり、花が咲いている。二人は改めてその事実を確認したのである。

 柳沢保明も上野介も紀伊国屋文左衛門もみんな“春が手の中にある”だけに、不安なのだ。心の平安は何と言っても、庶民の中にある。