福島原発、自然に対しても己に対しても謙虚さが失われていなかったか

 東日本大震災の大津波に襲われた三陸沿岸の自治体で、先人が残した防災の知恵を受け継ぎ、被害を免れた地域があった。岩手県普代(ふだい)村と同県宮古市姉吉(あねよし)地区である。この二つの地区は、壊滅的な被害に見舞われた沿岸部の中で、両地域では住民の命が守られ、住宅被害もなかったという。

 普代村津波被害を防いだのは、普代川の河口と市街地を隔てる全長205メートルの「普代水門」と、 漁業者の集落と港の間に建つ全長155メートルの「太田名部(おおたなべ)防潮堤」。津波は防潮堤の8割程度の高さに達したが、津波を完全に防いだ。また、 普代水門は水門を越えたが、約1キロ離れた市街地まで届かなかったので、村内にいたそのほかの村民3千人余りは全員無事で、1118世帯には浸水もなかった。

 水門と防潮堤の総工費は合わせて約36億円。 それぞれ84年、67年に完成した。県の事業で総工費の1割程度が村の負担。 周辺自治体は「まちの景観を損ねる」などとして同じような防潮堤の建造を見送り、 村民からも「そんなに大きなものが必要なのか」と反対の声が上がった。

 だが、村では1896年(明治29年)、1933年の三陸津波で計439人の死者を出した。先々代の故和村幸得(わむらこうとく)村長(在任47〜87年)は「いつか理解してもらえる」と意志を貫いたという。


 一方、本州最東端のとどヶ埼灯台から南西約2キロ、重茂半島東端の宮古市姉吉地区では、港から約700メートル内陸にある石碑が、12世帯約40人の住民の命を守ったという。

 同地区の住民はかつて海岸沿いで暮らし、過去の大津波で大きな被害を受けた。 生存者は明治の津波でわずか2人、昭和の時は4人だったという。 「此処(ここ)より下に家を建てるな」。石碑に刻まれた教えに従い、住民たちは全員そこよりも高台に居を構えていた。1933年の昭和三陸津波の後、住民らが石碑を建立、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、以後、住民は石碑の教えに従ってきた。
 
地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。



両村共通でいえることは、自然とか先人に対して極めて謙虚で、しかも偉大なリーダーがいたということだ。今日の日本全体にいえるのは、この両方がない。原発という効果も巨大だがリスクも甚大という非常に扱いにくいものに対して、両村のような謙虚さがあったらと、残念でならない。福島原発より100kmも震源地に近い女川原発はほとんど被害が無く、付近の被災者数百名が、その原発の施設に避難しているという。福島原発も作りようによっては、この度の災害を防げたのではないかと思うのです。