何と!!この人たちは善意の人たちの集まりだろう!

 さて先週のことですが、我社の工場長が面白い人が居るから会ってくれと、弊社へ連れてきた方が「林家種平」とおっしゃる落語のお師匠さんでした。あの林家三平さんのお弟子さんだそうです。
 いろいろお話している内に、たかじんさんの話題になり、「私20年ほど前、普賢岳爆発の慰問の途中、大阪のクラブONOでお会いしたことがある」とのことでした。たかじん著「たかじんが来るぞ!」という本の中で、普賢岳のくだりを読んでいたく感動したのを覚えておりましたので、私もつい身を乗り出して聞き入っていまいました。(ちなみに、私はその方面のことはトンと暗いのですが、クラブONOというのは大阪「北新地」では最高級のお店だそうです)。
 
  先ずは、「たかじんが来るぞ!」(やしきたかじん著、ワニの本、KKベストセラーズ刊)の中身からご紹介します。

もう20年ほど前になりますが、長崎県普賢岳が噴火して、家をそっくり流されて体育館に押し込められて不自由な生活を送っている人たちをTVで見て、居ても立ってもおられなくなり、被災地に飛ばれたそうです。そこで見たものは、当時の海部首相や橋本大蔵大臣の政府の無策であった。鐘ヶ江市長は訴える。「前例がない」「被災対策は地方自治体の問題ですよ」ばかりだったという。

では、「たかじんが来るぞ!」より。(ちょっと長すぎますが、余りに面白いというか、感動的な場面なので・・・・)

 ぼくはテレビで一時間ぶっとおしで吠えまくった。
 「国は何をしとるんじゃ!バカモーン! 人質にとられた日本人をイラクから救出するのも大切や。けど、島原の住民を救出するのも同じくらい大切なんと違うんか。それやったら同じように国からカネ出したらんかい!大蔵大臣はどこに行ってんねん!国民ナメとったらあかんぞ。」
 
 非難住民のおばあちゃんたちの声も鐘ヶ江市長の気持ちも代弁した(みんな大阪弁になってしもたけど)。テレビ局からは一円ももらっていない。もちろん、雲仙の旅館組合からも。ぼくが勝手に行って、勝手に取材して、勝手にテレビでまくしたてただけだ。
残念ながら、ぼくの声は電波域の関係で九州には届かない。しかし、広島までは行く。その広島で、たまたま鐘ケ江市長の親戚の方がこのテレビを観ており、あわてて市長に電話を入れたそうだ。
 親戚の人「あ、鐘ケ江さん。今テレビ観てるんやけど、そっちに〝やしきたかじん〟ゆうのんが取材に行ったやろ」(大阪弁になって、スミマセン。以下同じ)
 鐘ケ江さん「いいや。こないだ、ワケのわからん人、『ご苦労さん』言いに来てくれたけど……」
 親戚の人「そのワケのわからん人、〝やしきたかじん″ゆうて、関西では有名なタレントなんや」
 鐘ケ江さん「ああ、確かにヤシキさん、ゆうたな。その人がどうしたん?」
 親戚の人「今、テレビで『島原の住民を救え。鐘ケ江はエライ。国はアホや』ゆうて、えらい剣幕でしゃっべってるんや」
 きっと、こんな会話が交わされたのだろう。


また、その後日談が面白い。

 二十九歳。ヤケッパチの自堕落な生活に陥っていたぼくを、その泥沼から引き上げてく              
れた人。ぼくが男として初めて宝塚に出られるように引き立ててくれた時の演出家。草野旦さんとは、その後お会いする機会を逸したまま、十二年の歳月が流れていた。
 神戸でのコンサートが終わって楽屋に戻ると、面会だと言う。出てみると、その草野さんが立っているではないか。
「わあ、久しぶり。先生、お元気ですか」
 十二年ぶりの恩人との再会に、コンサートでの疲れもいっぺんにふっ飛んでしまった。草野さんは照れたような笑いを口許に浮かべて顔をそっと横に向ける。と、そこになんと宮崎旅館の女将が立っていた。
「うわああ、うそやあ!」
 ぼくは続けさまに二度驚かされた。女将さんは例によって深々と頭を下げたのち、「やしきさま。その節はどうもありがとうございました。それに、うちの弟(何と!あの鐘ヶ江市長だったのだ。引用者の注です)までがお世話になっていたとは知りませんで、こうしてご挨拶にまいった次第でございます」
「うわああ、うそやあノ」
われ知らず、ぼくは大声で叫んでしまった。この日三度目の、それも立て続けの驚き。寒イボ(鳥肌のことです)が立つ思いだった。
「こんなことて、ほんまにあるのォ!」
 ぼくの人生の大恩人ともいえる草野さんが、たまたま雲仙でタクシーの運ちゃんに連れていってもらった旅館の女将の実の弟さんだったなんて。
「わからんもんですねえ、先生」
 草野さんは当惑顔のぼくを、ただ笑顔でうなずきながら見詰めるばかりだった。
 島原に行ったことが、草野さんとの十二年ぶりの再会に結びついた。再会できたこと以上に、二人を再び神戸で引き合わせた「縁」としか言いようのない何ものかに、ぼくは身震いするほどの感動を覚えずにはいられなかった。
 そんなことがあったから、ぼくは改めて、自分を普賢岳に駆り立てたものについて少し考えてみる気になったといえる。
 ぼくを普賢岳に駆り立てたもの……。それは結局、ぼくのテレビを観たり、ラジオを聴いたりしてくれている人たちの存在ではないだろうか。
 もちろん、ぼく自身の旺盛な好奇心のせいもあるだろう。ちっぽけながら、正義感だってあるかもしれない。また、正直言って「普賢岳? 関係ないやん」という気持ちもどこかにはあった。  
 しかし、下積みのそのまた下の生活を長い間続け(ほんまに長かった)、こうして仕事もいただくようになり、少しは名前も知ってもらうようになった今、心底実感するのは?自分は生かされている″ということだ。
 ぼくを生かしてくれてる人が「たかじん、もっと行け」と言う。「普賢岳見てきて、話を聞かせてくれ」と。
 だから、ぼくが島原へ行って、見てきたもの聞いてきたことを、お上にもテレビ局にも遠慮せずにストレートにしゃべりまくるのは、ぼくが生かされていることへのペイ・バックだと思っている。
 どうもうまく言えないが、客の声援に応える、というのではない。
たかじんはアホやし、やってることハチャメチャやけど、あいつは間違ったことだけはせえへん。それだけは認めたろ」(引用者の私が勝手に太字にしました)
 お客さんのそんなふうな支持が感じ取れる限り、メディアの世界で、ぼくは行けるところまで行くつもりでいる。?一生懸命生きることが生かされていることなんや″ − そう思っている。

 余りに長い引用で(その上、たかじんさんに無断だし・・・)申し訳ありませんでしたが、たかじんさんの根幹に触れるような気がして、延々と転記させてもらいました。

 

 以上のような感動的な場面を記憶していたので、余計に師匠の「普賢岳慰問の自転車旅行」のお話に聞き入った。
前置きが大変長くなりましたが、やっと林家種平師匠のお話。本当は、もっと面白く話して下さったのですが・・・。

普賢岳爆発があった時、慰問の旅に出かけようと思い立ち、何日か練習した後、出発しました。行く先々で、義捐金を集めながら、14日間で長崎へ着きました。その途中、大阪では知人に連れられて、クラブONOに行った時、たかじんさんにお会いしました。その時たかじんさんも「普賢岳に行った」とおっしゃっていました。ママが隣で聞いていて、「それでは私も・・・」と、着物の帯に挟んでいた札束をサッと取り出され、「これを差し上げて・・・」とおっしゃってくれました。それが何と20万円もあったので、びっくりするやら、恐縮するやらでした。「とてもそんな大金は受け取れません」と、1万円だけいただいて、翌日朝6時半に出発しました。神戸を過ぎる頃、たかじんさんが、TVで僕のことを話してくれたので、先々行き違う車などから「頑張れよ」などと、声をかけられ元気づけられました。鐘ヶ江市長にお会いして無事、それまでに集めた20数万円をお渡ししました。


私は、心から感動しました。出る人、出る人、「何と!!この人たちは善意の人たちの集まりだろう!」と。その上、クラブONOのママがこの地のご出身で、横を流れる本城川では、「お父さんは小さい頃よく水遊びした」「お母さんは島根のご出身で私の家内の実家の近くであった」等々、余りに偶然のことが重なって、同席の方々、みんながびっくりするやら、感動するやらでした。

翌日、会社の人7人で師匠の落語会を見(?)に行きました。今TVの宣伝でも大活躍の真打の桂竹丸も出演したりして大盛況、大変面白かった!!。鶯谷の海老名家では、100人ほどのお客さんを集めて、毎月開催されている由。「自分達だけではもったいない。東京支社の面々にも観に行くよう薦めたいな」と思ったことです。