サッカー、日本人だけの日本チームの活躍を見て

ベルギー戦。日本のサッカーの健闘を讃えたい。連日世界のサッカーを見ていると、選手の顔だけでは、どこの国か判らない。色々な顔が入りまじっていて、なるほど世界はボーダレスというのがよく判る。その中にあって、日本だけは際立っている。まさに一色である。

常識的に考えて、色々な人を呼び込んだ方が強いのは確かだろう。昨今、ダイバーシティ(多様性)という言葉が、まわりを睥睨(へいげい)している。かって白人ばかりのベルギーは大変弱かったが、アフリカからコンゴをはじめ大勢の移民をチームに入れるようになって、メキメキ強くなりだし、今では世界3位だそうである。

しかし、世界では、移民難民問題が最重要問題になっているように、たしかに国のGDPを上げて、チームを強くするが、その分、トラブルも増えるのである。
こんどの日本チームは日本人だけで、監督まで日本人だった。残念ながら8強にはならなかったが、16強までは行った。他国人を入れて、多少のトラブルを抱え込んでも優勝を目指すのか、今のままでいいのか、悩ましい。

思い出したのは、先のオリンピックで大活躍したパシュートだ。1人ひとりの力量では劣るものの、3人のメダリストを揃えたオランダに完勝したのはお見事というほかない。チームワーク、和の勝利だった。今後、日本がグローバル化の時代に、どのように付き合っていけばいいのかと思わせられた。

田原坂に行ってきました

今年のNHKは「西郷どん」です。毎年恒例の、地元と人たちと日帰りのバス旅行。今年は西南戦争の激戦地、田原坂でした。毎年結構評判がよく、今年は総員81名、我々夫婦は1号車で41名、殆ど否全てがご老人で、無論我々もその一員ですが、毎年大体同じようなメンバーですので、結構顔見知りの方が多くなり、他国者の我々夫婦にとって楽しみにしていたのです。それにしても41名の中で男は3名。もっと男も外へ出よう!

 西南戦争は、薩摩軍、官軍双方とも、6000名以上の尊い命が失われたそうです。自分たちが幕府を倒したのに、明治維新になってみれば、それまで上位にいた武士が、職は失うわ、廃刀令で威信も保てないわで、新政府に対する不満には十分理解できる。
 西郷さんもこの狭間で大きく悩んだのでしょう。
 磯田道史氏著「素顔の西郷隆盛」でいう。

今から150年前、西郷という強烈な個性を持ってしなければ、新しい日本は生まれませんでした。西郷が現在の日本国家のもとを作ったのであり、新国家を作るために、徹底した破壊を断行しました。

西南戦争は、近代化へ向かって、どうしても避けられない過程だったのでしょうか。
つつじが満開で美しく咲いていました。

立派な人が一か所に集中するのはなぜだろうか

 オリンピックを楽しませてもらったが、特に印象に残ったのは、日本選手のチームワークだ。
一番良い例はパシュートだ。1人ひとりの力量では劣るものの、3人のメダリストを揃えたオランダに完勝したのはお見事というほかない。その反面、韓国の一人置いてけぼりにはびっくりした。日本では年に300日も選手同士が寝食をともにしたが、韓国の方は一緒にはほどんど練習もしていないという。どこの国でもメダルを取りたいというのは一緒のはずだが、これだけの違いがあるのはどういうことからだろうか。韓国に限らず世界中がよく言えば個人主義で、日本だけが例外なのかもしれない。そんな日本が、グローバル化の時代に、どのように付き合っていけばいいのかと思わせられるシーンだった。
 チームプレーといえば、女子カーリングが印象的だった。明るくて仲が良くて、時に泣いたり、時に笑ったりとプレーを楽しんでいた。仕事でもあんな風にならなければ本当の仕事はできないのではないだろうか。
 それにしても、LS北見のメンバー5人の全部が全部北海道北見市の出身で、そのうち4人は常呂町だと聞いて、またまたビックリ!!
 明治維新の偉人たちが、鹿児島の出身で、それも極々狭い加治屋町に集中しているのを思い出した。

 人が或る思いにとりつかれてその気になれば、誰でも相当なことができるということかもしれない。

 ただその一方、「あきらめるな。必ず達成される」ということもよく聞くが、私はこれまでずっと、「あきらめが肝心。一人の成功者の陰でどれだけの人が挫折したか」と思ってきた。
人生、複雑で一概には言えないが、どちらがいいのかわからない。

地震も火山もまったくわからないのでは?

1/24の日経新聞によれば「白根山の23日の噴火は気象庁や火山学者にとって想定外の場所で起きた」とある。
なにしろ本白根山の最後の噴火は約3000年前ものことというから、予知できないのは無理からぬこととはいえ、この「想定外」という言葉に、腑に落ちないものを感じる。
というのも、「想定外」というのは、何となく「ほとんど90%以上も分かっているが、今度のは余りにも稀なレアケースなので想定外だった」という風にとれる。
もともと、地震にしても火山にしても何にも分かっていないのではないか。御嶽山の噴火にしても、先般の東日本の大津波にしても、あれほど大きなものでも、ぜんぜん予知できていないのだから、「想定外」などと格好つけて言うのではなく、「全く判りません」と謙虚に言ってくれたほうが、無用な混乱を起こさないような気がするのだ。

というのも、思い出すのは口の永良部島の全島避難のことだ。一発目の大噴火があり次の噴火について、大学の先生が「ゼロではない」という。しかし「ゼロではない」といわれれば、行政責任者は次に来てもいいように、つまり必ず来るかのように想定して過大な準備を強いる。「ゼロではない」がいつの間にか「100%」に変質してしまい、全島避難を島民に強制した。しかし実際はその後2年間全く噴火がなかったのだ。まったく判らないのだから、全島避難などという強制ではなく、自己責任で島民一人ひとりに任せたら、無人島となったあんな無残さを見なくて済んだのではないかと思う。
 
もう一度当時を振り返ってみよう。新岳から噴火し、噴煙が火口から約10,000メートルの高さまで達したのは2015年5月29日9時59分のことだった。そして全島避難緒命令が下された。「ゼロではない」が「100%」に変質した瞬間である。それまで、地震予知の専門家で誰も警鐘を鳴らした人もなく、余りに突然のことだったので、全島民が身支度を整え、 同島本村港より屋久島町営フェリー太陽にて避難先である屋久島に向け全島民避難したのは15時40分だった。つまり6時間近くも経っていた。しかもその間に、向江浜地区で犬の散歩をしていた男性が一人やけどをしただけだったのである。

 噴火をそれ程恐れるなら人口は137人( 世帯数82戸)しかいないのだから港に中古の船を一漕待機させておけばそれで済むのではないか。それこそ今度こそは、せいぜい2時間もあれば全員集合できるよう準備万端整えておけば、前のことを考え併せれば人に被害が及ぶとは考えにくいのだ。こんなバカなことを繰り返していたら、この島も無人島となり、どんな国の人間が住み着くとも限らないことになるかもしれない。

 

アルカリ性の焼酎を新発売します

我社でアルカリ性の焼酎を売り出すことになりました。お酒は殆ど全て酸性ですが、この焼酎は極めて稀なアルカリ性です。そのためマイルドな味わいとのど越しのよさを訴えてゆきたいと思っております。
実は、本日の日経新聞に以下のような書き出しで紹介されました。
 

鹿児島大学とミネラルウォーター製造販売のエスオーシー(SOC,同県垂水市)、焼酎メーカーの新平酒蔵(同県大崎町)はSOCが扱う天然アルカリ温泉水を用いた本格芋焼酎の開発を始めた。共同研究契約を結んでおり、今春以降の販売を予定する。多くの既存のアルコール飲料のように酸性ではなく、焼酎が苦手な人にも売り込める新たな特産品つくりを産学連携で目指す。
 「当初からの夢を事業として形にしたい」。SOCの草間茂行社長は意気込む。

他国の人とは考え方が違う

明けましておめでとうございます。先週、東京に行った折、「お前は最近ぜんぜんブログを更新していない」と、「おめでとう」ではなく「おめだま」を食らいました。一生懸命書きますので、本年もよろしくお願いいたします。


さて、本年も年初からそうぞうしい限りですが、例の慰安婦問題で、またまた韓国がテーブルをひっくり返してしまいました。お隣の国でさえも、これほど考え方が違うのです。事実、昨年は、ヨーロッパにしてもアメリカにしても、移民が大問題となっております。 
他国の人とはどうしても考え方が一緒ということにはならない。野球でもサッカーでも、外国人を入れれば強くなるように、移民を入れた方が、国は強くなりGDPは増えるのは、確かでしょう。しかし、それで国民一人ひとりが幸福になるかと言えば、むしろ逆であるからこそ、アメリカやヨーロッパで大きな問題になっているのではないでしょうか。
たしかに、チームは強くなり国は栄えるかも知れませんが、様々なトラブル、問題が生じて、欧米の国民は最早、我慢が出来ない所まで来ているのでしょう。

「人手不足で外国人を入れなければどうにもならない」という論もあるが、お年寄りとか、定職についていない若い人が結構いる。できるだけこういう人たちに働いてもらった方が、色々な面でいいように思う。
難民はともかくとして、移民は入れずに、多少力が弱くなっても、貧乏になっても、平安を求める、というのが結局のところいいのかもしれません。

今の相撲界に思う

今年の年末は相撲界の話題で沸騰した。煎じ詰めれば、相撲は神事かスポーツかということではないだろうか。
スポーツであるとすれば、例えばプロ野球でホームランが一番多かった人が文句なしにホームラン王で、品格も人格もない。ところが、相撲界では、一番強くても品格を求められるから話がこじれる。なかなか一番強い人が人格者とはならないのだ。
実は、12月8日のミーティングで私は、信長、秀吉、家康の比較論でこんな話をした。、

「(略)大久保彦左衛門の件にしても、家康を口汚くののしっていても、しかも結構公言していたにもかかわらず、家康は何の沙汰も下さなかったということでも、家康の心の一端を知ることができる。もし、信長や秀吉であれば、問答無用、一発で殺されていただろう。徳川家がまだ弱小の頃、家康をとことん悩ませた一向一揆に参加した者は言うに及ばず、その首謀者であった本田正信さえもが許されその後老中にまでなった。また信長に長男信康を讒言(ざんげん)した酒井忠次を重用(ちょうよう)するなど、3傑の中でも抜きんでて秀でていると思っている。
 しかし、冒頭にも示したように、世の中の人の評判は、この3傑のなかで最低である。世の中の人の判断といえばそんなもんなのだろう。思うに、世間様というのは、その人の信条、哲学、倫理観、考え方などはどうでもよく、その人の業績こそが、唯一なのである。なるほど、業績という点では、信長や秀吉の方がきらびやかである。結果、業績(地位や学歴も)こそが評価されて、今で言えば、大企業の社長とか、高級官僚、大金持ちが偉いのである。
 今角界で賑(にぎ)わせている問題をみればよく判る。一番強い横綱が偉いのであって、民衆が白鵬白鵬となびくものだから、理事会までそれに引っ張られてしまい、白鵬が「貴乃花の巡業部長の下では行きたくない」といえばそうなってしまう。番付(つまり勝敗)だけの世界なのに、強いだけを評価されて横綱になった途端、急に品格などと付け加えられたら、様々な矛盾が噴き出るのは当たり前だ。どんなに強くても、礼節を失していたり、きれいな立ち合いができなければ、ダメなのか、それとも強くさえあればいいのか、今の世の中の判断基準が問われているのである。
 政治の世界でも、不祥事を起こした数々の政治家が力があるからと、みそぎを受けたとして復帰する様をみていると、しみじみ、「この世の中は力」で、どんな勝ち方でも「この世の中は勝てば官軍」なのだと思わせられる。だれでも無論私も、人のことは表面(業績、会社で言えば売上げ)しか判らないのだから仕方がないことともいえるが・・・。かくして国会議員とか社長とかいっても誰も尊敬しなくなった。」

 今の相撲は西欧的なスポーツであり、相撲協会や危機管理委員会は西欧流である。私の意見と言えば、、日本的な神事として、これまでの長い伝統を守ってもらいたい。強いだけでは横綱にはなれない、と。しかしこれは至難のわざである。そういうやり方だと、実際問題として誰を横綱に選ぶか、極めてむつかしい。

今年一年ありがとうございました。では皆様、よいお年をお迎えください。