今の相撲界に思う

今年の年末は相撲界の話題で沸騰した。煎じ詰めれば、相撲は神事かスポーツかということではないだろうか。
スポーツであるとすれば、例えばプロ野球でホームランが一番多かった人が文句なしにホームラン王で、品格も人格もない。ところが、相撲界では、一番強くても品格を求められるから話がこじれる。なかなか一番強い人が人格者とはならないのだ。
実は、12月8日のミーティングで私は、信長、秀吉、家康の比較論でこんな話をした。、

「(略)大久保彦左衛門の件にしても、家康を口汚くののしっていても、しかも結構公言していたにもかかわらず、家康は何の沙汰も下さなかったということでも、家康の心の一端を知ることができる。もし、信長や秀吉であれば、問答無用、一発で殺されていただろう。徳川家がまだ弱小の頃、家康をとことん悩ませた一向一揆に参加した者は言うに及ばず、その首謀者であった本田正信さえもが許されその後老中にまでなった。また信長に長男信康を讒言(ざんげん)した酒井忠次を重用(ちょうよう)するなど、3傑の中でも抜きんでて秀でていると思っている。
 しかし、冒頭にも示したように、世の中の人の評判は、この3傑のなかで最低である。世の中の人の判断といえばそんなもんなのだろう。思うに、世間様というのは、その人の信条、哲学、倫理観、考え方などはどうでもよく、その人の業績こそが、唯一なのである。なるほど、業績という点では、信長や秀吉の方がきらびやかである。結果、業績(地位や学歴も)こそが評価されて、今で言えば、大企業の社長とか、高級官僚、大金持ちが偉いのである。
 今角界で賑(にぎ)わせている問題をみればよく判る。一番強い横綱が偉いのであって、民衆が白鵬白鵬となびくものだから、理事会までそれに引っ張られてしまい、白鵬が「貴乃花の巡業部長の下では行きたくない」といえばそうなってしまう。番付(つまり勝敗)だけの世界なのに、強いだけを評価されて横綱になった途端、急に品格などと付け加えられたら、様々な矛盾が噴き出るのは当たり前だ。どんなに強くても、礼節を失していたり、きれいな立ち合いができなければ、ダメなのか、それとも強くさえあればいいのか、今の世の中の判断基準が問われているのである。
 政治の世界でも、不祥事を起こした数々の政治家が力があるからと、みそぎを受けたとして復帰する様をみていると、しみじみ、「この世の中は力」で、どんな勝ち方でも「この世の中は勝てば官軍」なのだと思わせられる。だれでも無論私も、人のことは表面(業績、会社で言えば売上げ)しか判らないのだから仕方がないことともいえるが・・・。かくして国会議員とか社長とかいっても誰も尊敬しなくなった。」

 今の相撲は西欧的なスポーツであり、相撲協会や危機管理委員会は西欧流である。私の意見と言えば、、日本的な神事として、これまでの長い伝統を守ってもらいたい。強いだけでは横綱にはなれない、と。しかしこれは至難のわざである。そういうやり方だと、実際問題として誰を横綱に選ぶか、極めてむつかしい。

今年一年ありがとうございました。では皆様、よいお年をお迎えください。