知識の量と洞察力は必ずしも比例しない

 今週、社内教育に使ったものが、結構面白いと思いますので、以下に載せます。
 これは10年以上も前に刊行された、

 渡辺昇一著「勝ちぐせ」人生を生きろ! 一流人に学ぶ自分の壁攻略方
           三笠書房 2001年刊
 からの抜粋です。



 今から思えば松下幸之助さんの先を見すえる眼力には、驚きいるばかりなのである。そして誰もが知っているように、松下さんは小学校しか出ておらず、いわば知識人では決してない。松下さんには先を洞察する知恵があったけれども、知識人と言われる人たちにもそれが備わっているかというと、決してそうとは限らないということだ。知恵と知識というのは必ずしも一致しないのだ。
 実は、このように人間の知力の働きについて疑問を持ったのは、私がまだ子供の時のことだ。そんなにはっきりしたものではないのだが、父と母を見ていて感じた漠然とした疑問がそうだった。
 母は何の教育も受けていないから、漢字もろくに知らないような人だった。これに対して父は「六法全書」に出てくる漢字で知らないものはないというぐらいに漢字には詳しい。知識の量からすれば圧倒的に父の方が多いのだ。しかし、子供の眼から見ても、どう考えても父の方が愚かに見えたのである。集会に出席すれば必ずと言っていいくらい揉め事を持って帰るし、仕事を始めるとこれまた必ずと言っていいくらい損してしまう。
 これに対して母は、めったに父に口出しするような人ではなかったが、それでも年に一度か二度ほど、こうやった方がいいんじゃないかといった意見を言う。するとこれが、子供心にも非常に的を射たことのように思えるのだった。
 漢字ももちろんだが、その他のことでも何でもよく知っている父が、いつもドジを踏んで、どこか間がぬけているように見えるのに、何も知らない母の方が賢いのはどうしてなのだろうと、いつも思っていたのである。そして、学校の成績が人生の成功と必ずしも一致しないことを、不思議に思い続けていたのである。
 
 終戦直後、大内兵衛先生ら二人の東大教授が、私の住んでいた鶴岡にも講義をしに来たのである。大内兵衛先生と言えば、吉田茂が首相の頃、大蔵大臣になってくれないかと言われて断ったほどの大先生である。
 それは、鉄だとか石炭だとかといった重要な資源の開発を、民間の会社にまかせておくとどんどん儲かって、貧富の差が大きくなる。それではいけないから、このような物資については国家がきちんと管理し、国家の手で開発しなければならないというような趣旨なのである。
 聞いていて、私は子供心になるほどそうだと思った。このようなものを民間の人が持ったらすごい金持ちができる。それは良くないことだと、東大教授の話を子供なりに納得して帰ったのだった。
 そしてこのことを、夕食を食べながら父母に報告した。父親はいたく感心して、そうだ、富の差ができるのは良くない、それは自分もそう思っているというようなことを言った。
 ところが母はポッリとこう言うのである。「東京から来た偉い先生も、やはり配給がいいと言っているのかね。どんなに偉い人が言っても、あれは駄目なものだ」
 私の家は配給で非常に苦労した。そのことを母は身にしみて感じているのである。しかし、大内先生の口からは二言も配給という言葉は出てこなかった。なのになぜか母は、私の報告からそのことを本能的に感づいたのだろう。私は母のポッリと言った言葉で、ハッと我に返った思いだった。それまで難しい言葉で語られて、頭の中に霧がかかったような気分だったのだが、それがすっきり晴れたのである。
 考えてみると、何にせよ国家がきっちりと管理するということは、戦時中に米を国家が管理して一定量だけを国民に配給するという、あの配給制度と同じことをやるということだ。やり方はその時と違うとしても、基本的な考え方は同じだろう。自分は、とどのつまり、配給の話を聞かされて感心して帰ってきただけなのだと気づいたのである。
 
 人間の知力には二種類あるのではないか。それが、インテレクト(intellect、知力、知恵)とインテリジェンス (intelligence、知識)の区別である。そして、インテリジェンスというのは知識を獲得する能力だが、インテレクトというのはそうではない。それは例えば、ダチョウと鷲みたいな違いがある。
 ダチョウや鶏というのは、飛べないけれども地面を歩くのはうまい。このように地面を踏みしめて地道に生きるのがインテリジェンスだというのだ。これに対して鷲や、あるいはツバメでもいいのだろうが、地面などは歩けないけれども、スーツと空を突っ切って飛ぶことができる。このような能力がインテレクトだとハマトンは言っているのである。
 
 知識ですべてを解決しようとすると間違いが生じる。谷間に落ち込んだり、泥沼にはまってしまうのだ。
 知識はあくまでも知識であって、人生におけるオールマイティではない。いやむしろ、融通のきかないイノシシみたいなものだと考えていた方がいいかも知れない。ハマトンはこれをダチョウと言っているのだ。ダダダツと走りはするけれども、鷲のように遠くを見ることはできない。そのようなものだと考えておけばいいのである。
 松下さんや私の母が持っていたような知力というのは、残念ながら計ることができない。計ることができないということは、傍から見ればわからないということだ。
 学校で教えることというのは、計りやすい知力を教えるのである。心理学の分析によると、人間は理論的には百二十ぐらいの因子を持つらしいが、このうちの七十いくつかは計ることができないという。せいぜい四十いくつかが計れるだけだというのである。学校において教えるのは、この四十いくつかの計れる部分のものだけだということだ。
 例えば、数学について考えるとよくわかる。数学の力というのは、良いか悪いかは試験をすればすぐにわかる。点数として計ることができるのだ。
 これに対して、ゴッホに限らず、絵の評価となると、人それぞれまちまちで、何がうまくて、何がへたなのかさえわからない。ゴッホを最初からうまいと言った人はいないのだ。このように、計れないものを教えようというのは土台無理があるのである。
 このような計れないものにウエイトを置くと学校はどうなるか。絵ではなくとも、人間の心がわかるかどうかで入学試験を行なうとどうなるのか。入学試験そのものが成り立たなくなってしまう。点数をうまくつける基準もないし、第一、親がうるさくて、試験や授業どころのさわざではなくなることが考えられるからだ。                                                                                         
 英語力にしても、英会話で計ろうとしては駄目なのだ。点数が悪いと、うちの子供はハワイに遊びにやって英語はベラベラのはずなのに、どうして点数が悪いんだ、と親は必ず言ってくる。こういうトラブルを避ける意味もあって、入学試験は英文法にするのである。これだと確実に計れる。関係代名詞がわかっているか、副詞を理解しているかは、試験をすれば点数で出てくる。有無を言わさず、合否の判定をすることができるのだ。

 実は、インテリジェンスのある人というのは使いやすいのだ。これは人を使う立場の人にはすぐにわかることだと思うのだが、インテリジェンスの高い人を雇った方が仕事が効率よく進むのである。大企業や官庁が有名大学出身者を雇いたがるのは、ここに理由がある。使うには頭のいい(理解のはやい)奴に限るのである。
 ところが、面白いことに、今度はリーダーになれるのかどうかということを考えると、これは話が違ってくる。
 要するに、ハマトンの例を借りるならば、学校の成績やそこでの知識というのは、ダチョゥの足を鍛えるようなものなのだ。そして、日本の場合はダチョウが東大出身者ということになるのだろう。彼らは物事をよく知っているから使いやすい、ということなのだ。彼らに先を見通す目や決断力といった鷲の知力が備わっているとは限らない。
 新商品を開発したからといって、それがすべて当たるとは限らない。販売して突っ走った先には、谷もあれば山もある。順風満帆の平野の先に、どんなクレバスが待ち構えているのか、誰にもわからない。成功するか失敗するわからない。そういう未知の領域へと船を進めて行くに当たっては、学校の成績などとは全く違った知力が必要となる。
 
 子供の頃からよく勉強して、一流大学を出て一流企業に入社して、そこでも頑張って部長まで昇進する。しかし、それは単に足を鍛えただけで、一生懸命に走ることはできても、谷にぶち当たって断崖から飛べるかと言えばそうはいかない。足を鍛えても、そういう能力や度胸までは必ずしも備わらない。なのに足を鍛えれば、羽も生えると錯覚する人は多いのだ。
 しかし、実際には全く異なる能力なのである。その点を勘違いすると悲劇が起こってしまう。飛べずに、断崖から落ちるだけとなってしまうのだ。
 とはいえ、ほんの稀にではあるが、ダチョウに羽が生える人もいる。官僚から非常に腐れたリーダーになることもある。しかし、それは非常に稀なケースなのであって、普通は、ダチョウはどんなに優れていても、またどんなに大きく育ってもダチョウのままであるということを頭の中にインプットしておくべきだろう。飛べないダチョウはやはり飛べないこれからは「鷲の知力」を持った人が成功する!
のである。だから成績がいいからといって、リーダーの素質があるなどと思ってはならないのだ。
 
 物事の本質をズバッと見抜く力、あるいは、物事の成り行きを見通す眼力のようなもの、そして、どんな危険をも乗り越えるだけのバイタリティと、強い意志力。それらを兼ね備えているのが、本物のリーダーなのだろう。学校の知識だけでは、これらの能力は養うことができないのだ。それが鷲の知力というものだと思う。
 
 卑近な例では、生命保険の外交員を思い浮かべればわかると思う。知識などなくとも、ものすごい契約を取ってくるおばさんたちはいっぱいいる。いやむしろこの場合には、知識などかえってじゃまになるのかも知れない。保険の契約などというものは、知識や教養があるからといって取れるものではない。
 何となく人の気持ちがわかるとか、信頼できそうだとかといった、物差しでは計れない?何か″ のある人がいい契約を取ってくる。才気換発である必要などまるでないのだ。顧客とおしゃべりしているだけで、何だか心が温まってくるとか、言いようのない魅力があるとかといった人が、いい仕事をするのである。だから、このような仕事においては、官僚や学者などといった人とは全く違った能力が必要となる。

 学校では教えられない「人間にとって一番重要なこと」 だから、学校の成績が悪いとか、有名大学出身ではないからといって、自分を卑下することは全くない。ダチョウの知力が劣るならば、ツバメの知力を身につけるように努力すればいい。ひょっとするとツバメの知力がそのうちに鷹を生み、いつの間にか鷲に変身するかも知れないのだ。
 豊臣秀吉明智光秀を比べればすぐにわかる。光秀の方が明らかに教養があった。知識があった。しかし、信長の気持ちをどちらがよくわかっていたかとなると、圧倒的に秀吉の方がつかんでいた。だから、その後の結果に格段の差が出てしまったのだ。
 光秀の教養はどこでも教えてくれる。今、学校で教えてくれることは、すべてこのたぐいの知識である。しかし、秀吉の持っていた人の心をつかむ方法というのは、たぶん誰も教えてくれない。というより、教えられるものではないのだろう。しかし、この秀吉の持っていた知力こそが、人間が生きていく上で、あるいは社会生活をしていく上で最も重要なことなのである。
 要は、「人間にとって一番重要なことは学校では教えられない」ということだ。このことは心しておいた方がいいと思う。
 例えば、実際問題として本当に知りたいのは、どうやったらお金を儲けることができるのかとか、若い人ならば、どうすれば異性の気持ちをつかまえられるのかといったことだろう。今の御時勢なら、さしずめ株価の動きはどうなるのかとか、来年は一ドル何円になるのかといったことだろう。

 学校で教えられるようなことだけ、つまり、答えがわかって点数として計算しやすいものだけを出題するのである。
 点数で計算できない人生の知恵は学校では教えられないし、また教えてはくれない。ならば自分で学ぶより他に方法はないのである。そして、その際に肝要なのは、知力には二種類あるということを忘れないこと。さらに、その一つの知識に惑わされてはいけないということだ。
 知識はあくまでも知識なのであって、それ以外の何物でもない。だから、これに左右されると、いつまでも生の人生に触れることができなくなる。だから、ある意味では、知を捨て街に出よう、というのは正しい選択だと思うのである。