「草莽崛起」(そうもうくっき)

今週の議事録から

 NHKの「花燃ゆ」で、処刑される直前、吉田松陰が門弟たちに残した最後の言葉
 
265年間続いた武士を中心とする幕藩体制が、迫りくる外国に対処できなくなった時、「日本を外国から守るためには、武士も町民もない。身分を超えて一つにまとまる必要がある。幕府や藩の役人ではなく在野の草莽たちこそが、これからの時代を変える」という考え方。これこそまさに上記でいう「方向づけ」だ。

 松陰が死して後、幕府軍は3万人という諸藩の兵を動員して、長州を総攻撃した。長州の大敗北に終わり、藩は幕府に従う派と革新派が熾烈な戦いになる。改革派の重臣周布政之助(すふまさのすけ)は政情に絶望し自殺した。
 このままでは長州藩は滅亡すると危機感を抱いた高杉は、クーデターの兵を長府の功山寺であげた。しかし、俗論派のうしろには強大な幕府の征長軍が控えているため、高杉に賛同して戦おうという者はほとんどおらず、従ったのはわずか80人足らず。その中に伊藤博文も入っていたという。それこそ百姓や町民中心の松陰の言う草莽が崛起したのである。相手は勿論武士だけの2000人、およそ勝ち目のない戦いだったが、奇跡を呼んだ。奇兵隊に農民が農兵隊を結成するなど諸隊が呼応して、決起軍は8000人という大きな勢力となって幕府軍を圧倒した。このとき諸隊を指揮したのが山県有朋。長州はこれで倒幕の気持ちを固め、いよいよ幕府との対決にのりだしていく。松陰の草莽崛起の考え方に導かれて高杉晋作が実際に行動を起こしたのだ。これが日本の未来を切り開く端緒になった。

 伊藤博文は日露開戦に当たって極めて消極的で、開戦必至の段階でもまだ一人逡巡し、わざわざ自らロシアに和平を求めて訪ねたほどなどで、腰抜け、軟弱外交となじられた。とんでもない!たった80人で2000人を向こうにまわして戦ったのである。このような人こそ本当の勇者であると思う