あっぱれ!片倉工業。富岡製糸場、世界文化遺産へ

群馬県の「富岡製糸場」がユネスコ世界文化遺産に登録されそうだ。
明治期、海外から知識と技術を導入して、日本の伝統産業である生糸の大量生産を可能にし、

1910(明治43)年には上記表(TV番組「ひるおび!」より)では早くも世界1になっている。近代日本の産業基盤を作ったのである。山本茂実のノンフィクション『あゝ野麦峠』は、まさに、戦前に金沢、富山の農家の娘(多くは10代)たちが、野麦峠を越えて諏訪、岡谷の製糸工場へ働きに出るために吹雪の中を危険な峠雪道を越え、また劣悪な環境の元で命を削りながら、当時の富国強兵の国策において有力な貿易品であった生糸の生産を支えた女性工員たちの物語であるが、たしかにそういう一面をもっていただろう。しかし、(同番組より)











当時としては、勤務時間、休日数、食事など非常に厚遇であったようである。富岡製糸場総合研究センターの今井幹夫所長は「過酷な労働であったのは間違いないが、休日制度や福利厚生は整備されていた」と指摘する。女子工員たちは寄宿生活を送りながら、フランス人指導者の下で働いていた。能力別の月給制度や細かい就業規則などがある「模範工場」で、女子工員たちは製糸場で身につけた技術を全国各地の生まれ故郷にもどって技術を伝えていったという。

実は、この片倉工業は私の生まれ故郷の隣村にあった。かって、紡績産業といえば今の自動車かそれ以上の存在で、農家の娘さん達は14〜5の年頃になるとみんな女工として紡績会社に行った。「カタクラ」といえば故郷のNo1、功成り名をとげた企業といえば、今のアメリカでも問題になっているように強引、強欲の面を有し何だかんだいいことは言われないが、当時不思議と悪い評判は聞かれなかった。
カタクラはわが故郷のNo1だが、日本のNo1は鐘淵紡績(カネボウ)だった。紡績産業が急成長する中でカネボウは紡績を軸に多角経営を行い一躍日本のNo1企業にのし上がっていったが、今や時代の流れの中でその姿を消した。わが故郷のNo1といっても当時はカネボウの数十分の一程度ではなかったか。しかし、まじめにコツコツと地道に、事業をしっかりと続けながらも社会的文化的メセナ活動を続けてきたのだろう。
時代の流れで20数年前に富岡工場を操業停止後も、カタクラは保存維持するための人を雇うなどして年間1億円ものコストをかけて保存に努めてきたので、明治時代の姿がそのまま残されている。審査員が「まさに奇跡!」と驚嘆したそうである。2005年には富岡市に譲渡し、国史跡に指定。翌年には官営時代の建造物が重要文化財にも指定された。

企業経営というものはこうでありたい。その精神、功績は今回の世界遺産への登録如何にかかわらず、非常に賞賛されることであり、素晴らしいことだと思う。社会や地域に貢献しながらも、着実に事業も成長させていける息の長い、まさにこんな企業でありたいものだ。