台湾に友人の生家を訪ねて

拙宅から3キロほどのところに「垂水カントリー」がある。その間に一つも信号がないから、ものの10分もかからない。その上メンバーは3~4000円で済む。私は来場数が第5位であった!!その第3位にランクされている(私より上位者なので、ただそれだけで尊敬している)3位さん(75歳、私よりずっと偉いから“さんみ”と読んでくれてもいい)が、昼食時によく、台湾・高尾で生まれ戦後引揚者となり、極貧の苦労をしたことを物語る。その上「一度その生まれ故郷を訪ねるのが一生の願いだ」というものだから、お調子者の吾輩が考えついた。「私の同級生が隣の台南市で大学教授をやっている。それに探させて、分かったら一緒に行こうか」とやってしまった。軽はずみもこれで極まれりだ。案の定、3位さんは大喜びで「ぜひお願いする」という。実はその教授は、私と違って大変優秀で、新聞記者時代「陳水扁」と知己になり、その関係で台湾の大学の教授となったが、この夏には「年だから引退する。それまでに一度遊びに来い」といわれていた。さっそく彼に連絡したところ、快く応諾し、「どうせ無理!」と、たかを括(くく)っていたが、何と!75年前の生家を探し当ててしまった。これぞ記者魂!というところか。

そうなれば台湾へ行かざるを得ない次第とあいなった。しかし2夫婦では余りにさびしい。さらばと、来場数ランキングの2位さん(65歳)を誘ったところ「それは面白そうだ!」と二つ返事。幸い、この3月25日から我が鹿児島と台北が空路直通となったので、4月17日から6日間行ってきた。
台湾に到着し、即、我々一行は教授に先導され現地に赴き驚いた。その土地の二人の村長さん、3位さんが昔通っていた小学校の校長さん、あとは「あの人は何なんだ」と訳もわからない人たちが大勢出迎えてくれて、彼の生家を案内してくれた。当時のタバコの葉の乾燥室も健在でそれが決め手となった。3位さんはことのほか感激ひとしおであった。終戦直後、ブタ肉を販売したあと、その生血でご飯を炊くのが最高の御馳走だったというから想像を絶するスゴサである。

ところで、その3位さんである。台湾から引き上げ後、極貧の義務教育を終えて、大阪へ集団就職した。働き者の3位さんは、そこの親方に見込まれて「うちの娘と結婚してくれ」と要請された。悩んだ3位さん、鹿児島の実家に帰り相談したところ「こぬか三升あれば養子に行くなというではないか」と止められ親方に断りをいれたところ、その家に居られなくなってしまった。一文無しの宿無し。やむなく地下鉄の通路で寝起きしていた。浮浪者にも階級があるんだそうで、一番偉い奴が一番暖かいところを占拠し、あとは順番に階段を寒い方へと並び、新入りの3位さんは当然のことながら、入り口に寝ていた。そうしたある日、見知らぬ大阪のおばちゃんが、たいしたものである。「あんた、若いくせに何にやっとんねん!そんなに仕事が嫌いなんか」と詰問された。その二人の問答を聞いていた2段階上の人が3位さんの言葉使いに「お前、垂水か」と聞いてきたので、「いいえ宮崎だ」とウソを答えたが、当然といえば当然、遂にバレてしまった。薩摩というところは、それ程までに地方地方で言葉が違うのだそうで、この辺が薩摩のすごいところだ。
翌日、2段階上の人に「オレについて来い」といわれ、新しいペンキ職の親方を紹介された。後、一本立ちしてそこそこ成功し、10年前跡目を息子に譲って、生まれ故郷に帰ってきてゴルフ三昧という訳である。
明晩はその3家族で反省会をする。楽しみだ。