リーダー・親分談義

昨夜、大阪の大企業(年商4千数百億円、従業員9千数百人)の役員さんが、わざわざ垂水のこんな小さな弊社を訪ねて下さり、夜は会食と大いに話に花が咲いた。その時一番の談論風発が、「親分・リーダー・創業者」談義だった。以前、営業会議でこんなことを言っていたのを思い出した。

司馬遼太郎は「坂の上の雲」で、このように言っている。

「子規の人間的特徴は執着のふかさである」
と、虚子は後年そのようにいっている。執着は自分のつくった句に対してだけでなく、弟子そのものに対してもそうであった。人間に対する執着は、つまり愛である、と虚子はこれについていう。「人の師となり親分となるうえにぜひ欠くことのできぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母の子を愛するようなものである」
 どういう放蕩息子に対しても母親というのはそれをすてずに密着してゆく、と虚子はそういう例をあげている。
 元来が弟子や子分というのは気ままで浮気であり、師匠や親分がおもっている半分ほどもその師匠や親分を想ってはいない。それでもなお師匠や親分は執念ぶかく弟子や子分のことをおもい、それを羽交いのなかであたため、逃げようとすれば追いつかまえてふたたびあたためる。
 子規はそうであった。


また、江波戸哲夫「社長の決断 その裏側」では

「経営者に必要な資質として明るさ」を挙げるのが最近の流行のようであるが、かつて経営の神さま松下幸之助は、評論家・田原総一郎に「成功する人物と、失敗する人物の差は?」と問われて、まず「運」を挙げ、それから「愛敬」を挙げてこう説明している。「いくら能力があっても、愛敬のない人間はあきませんわ。むろん、女性の愛敬と、男の愛敬と、ちょっと、ちがいはありましょうが、とにかく、愛敬、人を引きつける、明るい魅力ですな。それがないと人間はあきまへんわ」。
 人がもっている「鋭さ」「穏やかさ」あるいは「気むずかしさ」「気安さ」、はたまた「大らか」「神経質」等々、これらすべて肉体のもっている資質である。頭の中身はどんなにユーモラスでも、口先では面白い奴でも、肉体から発するものを被い隠せはしない。そしてこの肉体から発するものが他人に伝わっていき、その人を動かすのである。
 愛敬はリーダーの必須条件なり、というといつも思い浮かべる劇画がある。『ゴルゴ13』の一話である。
 ある町のギャングのボス。ダルマのような太ったちょっと間抜けな女好きで、判断力も低く、腕利きの代貸しに支えられてボスの座にある。一見、リーダーとしての能力は、代貸しの方がずっと高いように見える。そこで、ボスの情婦はこの代貸しをけしかけ、クーデターを起こさせボスから逃げ出そうと目論む。ところがもちかけられたこの代貸し、「オレは、筋を通しすぎるんでな、ボスの器じゃないんだよ」と答えるのである。
 リーダーシップ論などにあまり関心のない人でも、この代貸しの台詞はストンと胸に落ちるだろう。
 このギャングのボスのだらしなさ、女に向かう時の愛敬。こうしたものが部下たちを引きつけボスを担ぎ上げさせる武器になっている。一方の代貸しは、このボスが死ねば、一匹狼にでもなるか、他のボスを見つけてまた代貸しになる人材だということがよくわかる。

 この辺がリーダーの面白さであり、むつかしさだ。児玉源太郎が「智恵というのは、血を吐いて考えても、やはり限度がある。最後は運だ」と言っているように、知恵だけではダメなのだ。最後は運であり、その運を引き出す「努力」が必要だ。しかしその努力が全面に出て、苦虫を噛み潰したような顔をしているようではダメだ。ゴルゴ13のボスのような愛嬌、大らかさが必要のようだ。

  ついでに、もう一つのリーダー論・・・
 熱帯の木々が生い茂るジャングルであっても大木の下では他の木は育たないそうです。ところが、その大木が倒れるといっせいに芽吹きだしやがてまた大きな木が育つそうです。リーダーというのはそうしたものではないでしょうか。この事務所の目の前で、昨年の夏頃、本城川の雑木林をきれいに刈り取りしたところ、その跡にいっせいに新しい芽が芽吹きだし、あたり一面新緑でおおわれました。刈り取りがなければこんな新しい生命はうまれてこなかったろうと感動的でさえありました。
 新年を迎えた今でもあちこちに若緑の新芽が芽吹いております。リーダーというのはそうしたものではないでしょうか。存在感のあるカリスマ経営者が倒れて、一体あの会社はどうなるのだろう(たとえば本多宗一郎、松下幸之助)というのも杞憂であって、またまた新しい立派な後継者が現れるのです