「人の上に立つ人は、下のものに執着を持て」と司馬遼太郎は説く

社内会議議事録より

親はどれほど子のことを思っているかわからない。しかし子は親の愛、恩など無頓着だ。しかし、その子が親になったとき、その子供に無償の愛を注ぎ込む。世の中、良くしたものである。

 この辺の微妙なところを、司馬遼太郎坂の上の雲で、このように言っている。

「子規の人間的特徴は執着のふかさである」
と、虚子は後年そのようにいっている。執着は自分のつくった句に対してだけでなく、弟子そのものに対してもそうであった。人間に対する執着は、つまり愛である、と虚子はこれについていう。「人の師となり親分となるうえにぜひ欠くことのできぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母の子を愛するようなものである」
 どういう放蕩息子に対しても母親というのはそれをすてずに密着してゆく、と虚子はそういう例をあげている。
 元来が弟子や子分というのは気ままで浮気であり、師匠や親分がおもっている半分ほどもその師匠や親分を想ってはいない。それでもなお師匠や親分は執念ぶかく弟子や子分のことをおもい、それを羽交いのなかであたため、逃げようとすれば追いつかまえてふたたびあたためる。
 子規はそうであった。

このように、人の上に立つ人は、下のものに「執着」を持てと司馬遼太郎は説く。

親と子、親分と子分、師匠と弟子、社長と社員、これらは皆こんな関係にある。だから、親や親分や師匠や社長が、その思いを返してくれないといって、その役割を放棄したら、人間社会は壊滅する。それがあるからこそ、世代から世代と永遠に受け継がれて行く、我々は連綿と続く一行程にすぎない。そんな風に考えれば、皆さん(勿論私を含めてだが)が、先代に恩返しをしなくとも(また実際やりたくてもとてもできないが)それほど罪の意識や自責の念を持たなくていいのかも知れない。皆さんは後代の人にそれ以上の、恩や愛を委譲してくれればそれで十分なのかも知れない。
だから皆さんが、後にSOCの幹部になった時、次代の人たちに恩や愛を降り注いでもらって、社員がその子供に対して「この会社に入社させてやりたい」と思うような会社にしてもらえれば、この上ない喜びである。
よく考えてみれば、それ程、親の愛情は深遠で、無償のものなのだ。それには到底及ばないながらも、社長たる私も、社員たる皆さんに注意し、育てていかなければならない。それが使命なのだろう。なかなかできないことだが、それができないなら、親や親分や師匠や社長を辞めるしかない。