FIFA日本16位以内決定で、日本中「総懺悔」

芥川龍之介の『侏儒の言葉』、「天才とはわずかにわれわれと一歩を隔てたもののことである。同時代は常にこの一歩の千里であることを理解しない。後代はまたこの千里の一歩であることに盲目である。同時代はそのために天才を殺した。後代はまたそのために天才の前に香を焚(た)いている」の状況の中にはまり込んでいる。

カメルーン戦以前は、“岡田やめろ!!”の大合唱が、今や、「岡ちゃんゴメンネ現象」で日本中が総懺悔。サポーターからサッカーの専門誌、スポーツ評論家、マスコミ界までもが、こぞって褒め称えている。見苦しい限りだ。そもそもサポーターというものは素人だ。それでいいし、それだからこそいやが上にも盛り上がる。外国ではフーリガンまで出現する。
しかしそれを飯の種にしている雑誌社、評論家は素人ではない、プロなのだ。スポーツネタを流しているマスコミとて、飯の種にしているのに他ならないのだからプロである。そのプロたちの余りの軽薄さは、にがにがしいばかりだ。鑑識眼もなければ根性もない。その辺のサポーターとちょっとも変わらないところに問題がある。

鳩山・小沢が責任をとって職を辞した。その小鳩を決して許さないTVコメンテーターが、“すみませんでした”と言って全てが済むと思っているとしたら大甘だ。少なくとも、ここ一連の報道で“手の裏返し”をしたプロたちは、最低、頭に“剃りを入れる”程度のことをする必要がある。ほんのチョットの剃りでもいい人、丸坊主にならなければならない人、程度の差はあろうが、子供じみているかもしれないが、何らかの責任を取ってこそ、あなた方の言質に重みを加え警世の士となる。あなた方の影響は途方もなく大きいのだから。
 最近は余りに“責任をとらない”のが目に付く。「責任をとる」という潔さこそが、人の言動に慎重さを生み説得力が増すのである。真のジャーナリズムに目覚めて欲しいものだ。


 実は先週、ある大きな化粧品会社の方4名が東京から日帰りで来社された。その日に至るまで、合意できるか否か、全く予断を許さなかった。それまでの営業に携わる社員たちの苦衷は察するに余りあるものであった。彼らは全力でことに当たってくれていた。ときに大きなミスもあった。しかし結果として、イエスであろうとノーであろうと、そのご苦労を謝し、その夜我が家で慰労会を行うと朝礼で話した。私は、サッカーでは素人のサポーターであるが、経営では許されない。結果だけをみて判断するような素人の領域に留まっていてはならないのだ。あくまでも経営のプロとして、「過程を大切にしたい」と思う。
 最終的には大商談が成立した。先方さんは、徹底的に日本中の水を検討し「温泉水99」と定めて下さったのだ。引き合いの割には温泉の湯量が少ない。調子にのって、「他の水と混ぜる」などという愚はしない。SOCのS(シンシアリティ)、誠実に行っていきたい。




それにしても、闘莉王の「僕らは下手なりにやり方がある」との言、含蓄の深い名言だ。