集団わいせつ事件の東大生。本当に頭がいいの?

 東京地裁では5カ月前に起きた東大生による集団わいせつ事件の残る最後の1人の判決が出た、とTVが報じていた。つい先日は千葉大の医学部生、慶応・早稲田と有名大学生が次々と事件を起こしている。これを報じるTVの「頭のいい学生たちが・・・・」という表現が気になった
 果たして、この連中は本当に頭がいいのだろうか。単に勉強ができただけではないのか。これに関連して、渡辺昇一さんの昔読んだ本を思い出した。

勝ちぐせ」人生を生きろ! 一流人に学ぶ自分の壁攻略方
          渡辺昇一著 三笠書房 2001年刊

 学校で教えることというのは、計りやすい知力を教えるのである。心理学の分析によると、人間は理論的には百二十ぐらいの因子を持つらしいが、このうちの七十いくつかは計ることができないという。せいぜい四十いくつかが計れるだけだというのである。学校において教えるのは、この四十いくつかの計れる部分のものだけだということだ。
 例えば、数学について考えるとよくわかる。数学の力というのは、良いか悪いかは試験をすればすぐにわかる。点数として計ることができるのだ。これに対して、ゴッホに限らず、絵の評価となると、人それぞれまちまちで、何がうまくて、何がへたなのかさえわからない。ゴッホを最初からうまいと言った人はいないのだ。このように、計れないものを教えようというのは土台無理があるのである。

 要は、「人間にとって一番重要なことは学校では教えられない」ということだ。このことは心しておいた方がいいと思う。
 例えば、実際問題として本当に知りたいのは、どうやったらお金を儲けることができるのかとか、若い人ならば、どうすれば異性の気持ちをつかまえられるのかといったことだろう。今の御時勢なら、さしずめ株価の動きはどうなるのかとか、来年は一ドル何円になるのかといったことだろう。

 学校で教えられるようなことだけ、つまり、答えがわかって点数として計算しやすいものだけを出題するのである。
 点数で計算できない人生の知恵は学校では教えられないし、また教えてはくれない。ならば自分で学ぶより他に方法はないのである。知識はあくまでも知識なのであって、それ以外の何物でもない。だから、これに左右されると、いつまでも生の人生に触れることができなくなる。だから、ある意味では、知を捨て街に出よう、というのは正しい選択だと思うのである。