ペンギンの子育て、無償の愛

南極の皇帝ペンギンのメスが夏の終わりに一つの卵を産み、それを夫に預けてから、疲れた体力を回復するために海にエサを取りに行く。やがて零下60度にも達する過酷な冬がやってくるが、父親はその場を一歩も動くことなく、飲まず(?)食わずでお腹の中の卵をあたため、孵化せせる。やがて待ちわびていたメスが帰って来て、子育てを交代して、やっとのことエサにありつけるのだが、その間なんと4ヵ月もの絶食状態だという。父親にしても母親にしても、命がけの子育てである。

子育てを済ませて母親と交代するときが、おそらく父親が子を見る最後のときではないだろうか。金輪際のお別れで、恩返しなどは微塵もない。子が、親に何の恩返しもしないとすれば、それは、「動物や獣と何ら変わらない、もっと言えば人間ではない」という向きもあるが、地球上に200万以上もの種にあって、DNAや種の保存本能が営々と受け継がれてきた中で、人間だけが、というのはやや無理があるような気がする。勿論、親がキチンと子を育てなければならないのは言うまでもないが、子に恩返しをしろ、というのは、DNAや種の保存本能に反して、過剰な期待をしすぎているといえるかもしれない。最近、子の親殺しが頻々と出ているが、これも、DNAや種の保存本能を軽く見て、子に過剰な期待を寄せてきた結果、DNAや本能に復讐されているのかもしれないのだ。



 以上のようなことが普遍的にいえるとしたら、会社とか色々な組織にも同じようなことがいえるのかもしれない。司馬遼太郎の「坂の上の雲に次のような一小節がある。

子規は、よほど執念ぶかくうまれついているらしい。「子規の人間的特徴は執着のふかさである」と、虚子は後年そのようにいっている。執着は自分のつくった句に対してだけでなく、弟子そのものに対してもそうであった。人間に対する執着は、つまり愛である、と虚子はこれについていう、「人の師とたりノ朝分となるうえにぜひ欠くことのできぬ一要素は弟子なり子分なりに対する執着であることを考えずにはいられぬのである。たとえばそれは母の子を愛するようなものである」
 どういう放蕩息子に対しても母親というのはそれをすてずに密着してゆく、と虚子はそういう例をあげている。 元来が弟子や子分というのは気ままで浮気であり、師匠や親分がおもっている半分ほどもその師匠や親分を想ってはいない。それでもなお師匠や親分は執念ぶかく弟子や子分のことをおもい、それを羽交いのなかであたため、逃げようとすれば追い、つかまえてふたたびあたためる。
子規は、そうであった。「おまえをあとつぎにする」と子規はいったが、結局、虚子は学問をきらって逃げ、それをことわったかたちになったが、それでも子規は怒らず、懸命に虚子に俳句について教えつづけた。