お取引先の専務さんに講演していただきました

当社の大口の取引先で、社員1600人もの大きな会社の専務さん。そのお人柄に常々感服しておりましたので、いつか社員にもご高説を聞かせてあげたいと思っておりましたが、ついにその機会がきました。弊社社員の前で、このようなお話から約1時間半のご講演と30分程の質疑応答をいただきました。そのほんの一部をご紹介します。

私は昭和22年、子守唄で有名な五木村に生まれ、昭和37年に中学を卒業しましたが、村に高校はありません。高校に進学しようとすれば、バスで1時間半ほどかかかる人吉まで通わねばなりませんので通学は不可能です。かと言って下宿ということになれば、授業料に加えて下宿代までかかってしまいます。貧しい村でしたので、ほとんどの人は高校進学はできませんでした。

当時は高度成長期にあたり、中でも紡績がさかんでした。企業自らが、中学卒業者を駆り集めて技術者に育て上げるための養成学校を運営するほど、人手が不足していました。「集団就職」が当たり前の時代だったのです。

そのような中、私も高校に行くことなく、大きな会社に入社しました。仕事の中味もよく分かりませんでした。
中学を卒業したばかりのたくさんの就職者を乗せた夜行の集団列車に乗せられて、私は、ボストンバッグ1個を抱えて、人吉駅から母校のブラスバンドの演奏に見送られつつ、新天地へと向かいました。名古屋が終点のその列車は、企業側がチャーターしたもので、停車するのはいずれも大きな工場のあるところばかりでした。
長旅から降り立った私を待っていたのはおんぼろバスでした。そして、バスが着いたのはヒビの入った倉庫前。そこにはたくさんの荷物が積まれていました。3年もすれば養成所という形で学校が作られるという話も聞かされましたが、寝泊りするのは、芸者さんたちの置き屋だったところの2階。40畳ほどに、36人が押し込められて雑魚寝(ざこね)する有様でした。

5月になり、初任給4千円をもらい、友人4人で食堂に行き、そこで初めて親子丼を食べ、世の中にこんなに美味いものがあるのかと驚きました。というのも、五木村にはまともな食い物もなく、親子丼、カツ丼、カレーといった食べ物はなかったからです。私がこれまでやってこれたのは、このときの感動があったからだと思っています。


以上のようなお話から始まって、約2時間貴重なお話を伺うことができました。最後に私が感謝のご挨拶をさせていただきました。
本日は大変参考となるお話を賜り、本当にありがとうございました。人生を生きて行く上で糧となる大事なたくさんの言葉をいただきましたが、そのたくさんの言葉の共通語と申しますかキーワードは「明るさ」ではなかったかと思います。明るさこそ、これまでの様々な出来事を乗り越えてこられた原動力ではなかったかと感じた次第です。私どもはこのお話を励みとして日常の業務にまい進して行きたく存じます。今後とも引き続きよろしくお願い申し上げます。


以前、専務さんから五木村のお話をお聞きし、無性に行きたくなって、家内と山また山の奥深く行ってきました。そのときの道の駅に「五木の子守唄」の歌詞がありました。いろいろ考えさせられる哀愁を帯びた大変いい歌です。