一時日本を風靡した小泉改革、その中心人物だった人が「あれは間違いでした」と懺悔の書を著したという


 今更そんなことを言われても困るばかりだが、もし間違っていたなら潔く、その旨告白してもらった方が、弁解ばかりで自説を曲げない人より余程いいのだが、とにかくその「懺悔の書」とやらを読むことにした。

著者は、「人間は元来、他の動物たちよりもずっとひ弱な存在であったので、群れを作ったことで人間は文明を発達させ、万物の霊長と言われるほどになった。従って、他人とのつながりを持つことによってこそ、安心を覚え、心の安定を得るようにできている。
 ところが資本主義が発達していくと、富とテクノロジーさえあれば、他者とのつながりなど必要ない。他人との直接的な触れ合いやつながりを大事にすることなどは非効率で、感傷的なことである、という考え方が蔓延しているのが今のグローバル資本主義社会というやつであり、それによって我々の社会には格差が広がり、社会全体の一体感が失われている、というのである。
 以下はその一部の要点である。

 

 「すべては自己責任」という新自由主義の思想においては、貧しく不幸な境遇にある人たちに対する同情は不要なものであり、むしろ有害なことである。
そもそも彼らが貧しいのは自助努力の精神が足りないためであり、そうした人たちに手を差し伸べるのはかえって彼らを甘やかすことに他ならない。また手厚い福祉制度やセーフティネットを用意することは、努力をしないことへのインセンティブを与えることになり、社会全体の効率を低下させるというのが新自由主義者たちの主張であった

 たしかに、こうした「自己責任論」を強く主張したことで、新自由主義はある程度の経済的成功を収めることに成功した。英国病によって著しく停滞していたイギリス経済はサッチャー改革によって長期景気回復を実現したし、レーガノミックスによってアメリカの金融やIT産業は未曾有の隆盛を極めることになった。
                                                                              
 文化には「価格」はつかないから、文化的な価値を市場活動が壊していっても、それは経済的損失としてはカウントされない。文化損失のコストは計算できないから、どんどん伝統文化は破壊されてしまっても、経済学においては問題にされない。          
 本書で繰り返し述べてきたように近代経済学が想定する「世界」とは、合理性に基づいて自由意思で行動する「経済人」によって構成されるマーケットに他ならない。このマーケットは、「価格」のつく商品のみを取り扱う。
 価格がつかないもの、たとえば文化伝統や自然環境といった「外部性」について、基本的に経済学は取り扱わないし、ましてや人々の心の荒廃などというのも、もちろん経済学の対象外である。
 
 たとえば「自己犠牲の精神」にしても、経済学が扱う場合には「利他的な行動をすることによって、その人が一定の利益を得るからであろう」という解釈に立つ。すべては利益、コストによって換算するのが近代経済学の基本なのである。

 しかし、これまで何度も指摘してきたように、こうした新自由主義の思想は人々から社会的連帯感を奪った。「自分さえよければそれでよし」とするミーイズムが蔓延するなど、そのマイナス面が露呈し、社会的疲弊が目につくようになったのである。

 私はマーケット・メカニズムに任せておけば世の中は良くなるという単純な改革思想には大きな疑問を抱くようになった。小泉内閣の「改革なくして成長なし」というスローガンにも素直にうなずくことができなくなってしまったのである。